2013年6月29日土曜日

6.24 SENDAI LIVE REPORT


たとえば、ラスべガスでショーを見てくつろいでいるような。あるいは、ニューヨークの老舗クラブでじっくりトランペットの音楽に耳を澄ましているような、そんな感じ、といったら大げさだろうか。

 長渕剛のファンクラブツアー〝Thank You!〟も折り返しを過ぎて、いよいよ後半に差し掛かろうとしている。このレポートでも再三触れてきたように、今回のライブは、いつものエネルギッシュな展開ではなく、剛の音楽の本質を味わい尽くすことができる貴重な機会となっている。そしてその本質が、ラブソングであり、2030代の頃に書き上げた名曲たちが、命を吹き込まれていく様を僕たちは全身で体感している。

 だから何て言ったらいいのだろう。

 何十年分の想いをつむぎながら、みんなで新しい曲を作っているような、そんな幸せな気分になってくるのだ。だって、『二人歩記』を剛と一緒に歌いながら、こんな歌詞があったんだって改めて気づかされるのだ。


  僕は君なんだし 君は僕なんだよ


 新曲『未来』のメッセージと何十年の時間を超えてつながっているということに驚く。そうすると、歌の世界を飛び越えて、剛とファンとの絆を確かに手でつかむように感じることができるのだ。

 だからそれはまるで、ライブハウスやアリーナにはない、独特の距離感と雰囲気なのだ。そう、まるで欧米の一流ミュージシャンが、今日はちょっとだけやったらすぐ帰るよ、というようなカジュアルさで演奏を始めるショーに近いかもしれない。圧倒的なスキルとキャリアに裏打ちされてこそのリラックスしたステージは、うるさ型の音楽ファンも年若いファンも隔たりなく虜にしていく。そして総じてそのようなステージがファッショナブルであるように、今回の長渕剛はカッコいい。べつに着飾っているわけではない。白地に黒いドットのシャツやヒョウ柄のジャケットをTシャツみたいにさりげなく着こなしている。何十年と使いこなして来たヴィンテージのアコースティックギターがグッと映える。

 何も特別なことはない。けれど、本物にしか出せないカッコよさってこういうことなんだな、というのがよくわかる。

 う〜ん、いや・・・やめよう。一瞬僕もヒョウ柄のジャケットを、なんて思ったけど、あんなふうにはなれっこないから。

6.20-21 Zepp Tokyo LIVE REPORT


「未来」と言われて、うまく想像できる人がいるだろうか?

「夢」や「将来」なら、ああしたい、こうしたいという希望を語ることはできる。しかし「未来」という響きには、途方もない大きなものが含まれているような気がして、少し腰が引けてしまう。きっと、「夢」や「将来」はその人個人に集約される言葉で、「未来」の指し示す範囲はそれよりも広いためだろう。そう。我々は、自分の中から一歩でも外に出ると、とたんに迷子になってしまう。

 今回のファンクラブツアーでは新旧の名曲が、ギター1本の妙技で披露される。考えてみたいのは、どうしてギター1本のステージだったのか、ということだ。そこにはもちろんファンクラブ・イベントならではの親密さが大きな理由としてある。そしてもう少し突っ込んで考えてみると、長渕の深い意図が見えて来る。

 最上の音楽を最高の空間で共有すること。これこそがライブの本質であり醍醐味だ。バンドサウンドや演出を取り払って、むき出しになった長渕のギターテクニックのすごさには感嘆させられる。リズム感、表現力、アイデア……人間の感情のひだにピタッと寄り添うことの出来るギターだ。楽器と身体がもともと一体となった、〝そういう人〟に見えてくるほど、彼のギターサウンドは生理的に心地よい。そして、ボーカルの迫力は、弾き語りでこそ際立つ部分だ。言葉一つ一つに対する微妙なアプローチの違いがわかって、たとえ三十年前の曲であっても、今という地点にしっかり立脚しているところがすごい。

 青春時代に心を振るわせたあの曲を、何十年たって、ライブ空間で聞く。その瞬間、個人的な様々な思い出がよぎっていく。長渕の曲への想い、個人個人の曲との思い出、それらがひとつになって向かうのは「未来」だ。

『未来』の中にこんな一節がある。

  

  君の瞳の中に 僕がいるかい

  僕の瞳の中には いつも君が生きている


 それこそが「未来」なのだと唄はつづく。

 考えたり想像したりすることは難しくても、自分と誰かが何かを共有している、その状態が「未来」なのだ。

 長渕が今回、ギター1本で、かつ、極力演出を排除したシンプルなステージにこだわった理由がおわかりいただけただろうか?

 ファンクラブのみんなと未来へ向かいたい。そこには長渕の強い意志が込められている。

2013年6月23日日曜日

6.18 Zepp Nagoya LIVE REPORT


ギターの1ストロークだけで、その音楽が本物かどうかがわかる、と言ったのは誰だったろうか。たしか高名な音楽評論家の言葉だったと思う。まったくその通りだ。けれど、長渕剛の場合は少し違う、と言っておこう。1ストロークする前から音楽が鳴っているのだ。長い年月をくぐり抜けて来たギターのボディに反射する鈍い光、それを構えた長渕のふてぶてしいまでの存在感、それと一段とボリュームを上げた歓声とのギャップ、そうしたすべてから、もう音楽が鳴り出しているのだ。そして実際に音が響き渡ると、会場は一気に静まり返る。6弦から1弦までの細やかな表現が聴覚だけではなく、視覚や触覚、あらゆる感覚を開放していく。音楽の訪れだ。僕たちはその響きに誘われて、これからしばらくの間、素敵な旅に出るのだなと幸せな覚悟をする。

 この音楽の旅は、じつにバラエティに富んでいる。ジャンルも国境も時代も超えて行く。1960年代のニューヨークのグリニッヂ・ビレッジからもっと古い時代のアメリカ南部ミシシッピ川沿いの古ぼけた街角、そして1970年代、学生運動の残り香のする博多の街へ、あるいはバブル期の原宿……たしかにその時代、そこで鳴っていた音楽が長渕のギターと声を通して聴こえてくるのだ。フォーク、ブルース、ロック、あらゆる音楽の魂が長渕剛に感応して瞬いている。

 自分の身体が自然なリズムを刻み、ブーツで床をタップし、手のひらは太ももを叩いている。感覚としてあるのは、ああ、音楽の上に乗っかっているな、という最高の気持ち。まったく、どこまでも行けそうなあの気持ち。ステージの上で長渕がギターのストラップを外し、ローディーに次のギターを要求している。早く次の曲をやりたくて仕方がないのだろう。こっちだってそうなんだぜ! とっととやってくれよ! うわ! きちゃった! ボトルネックだよ、おいおい。ここはルート66か? 目の前の地平線に向かって真っ直ぐ伸びた道路を走っているような爽快さ。あるいはここはニューオリンズの街中か? もう身体が止まらないよ。かと思えば次の瞬間には、ガラス細工のような繊細な音で構築されたラブ・ソングの世界で涙腺を震わせられる。

 終わったら、もうへとへと。今回のファンクラブ・イベント、長渕剛の長い歩みとともに、彼の音楽的レンジの広さも十分堪能出来る構成となっている。 
 自らの感覚を開放して、純粋に音楽を楽しんで欲しい。

2013年6月19日水曜日

6.15 Zepp Fukuoka LIVE REPORT

「第二の故郷、福岡!」
 剛のMCも心なしか弾んでいる。
 そして何より博多のお客さんがあたたかい! 今回のレポートはファンクラブ・イベントの醍醐味、剛とファンとの交流にフォーカスしてレポートします。
 『かましたれ!』でわき起こった手拍子に対して、「早い! 早い!」一旦演奏を止めてお客さんをたしなめる場面も。会場がなごんだ後、だんだん年代物のエピフォン・オリンピックの音色とお客さんの歓声がひとつになっていく。まるで剛が青春の日々を過ごした博多にタイムスリップしていくような感覚だ。そして曲終わりにはこんな話を披露してくれた。
「明星七号っていう夜行列車に乗ってね、夢をつかむために鹿児島からこの博多に出てきた。博多——っ、博多——って鳴り響くアナウンスを聞いた時に、故郷のことや西鹿児島駅のホームまで見送りに来てくれた母親の姿、それまでのいろんな思い出がこみ上げてきた。そうやって故郷を離れて3年住んだ街だからな、博多は。自分の音楽の、それから人間としての、一番ベーシックなところをここで教わったんだよ」
 集まった博多っ子たちは何度も大きくうなずいていた。きっと、いつかの剛と同じように今まさに田舎から都会に出て来て夢をつかむために切磋琢磨している若者もいたことだろう。そして、剛と同じような青春を過ごした往年のファンもいただろう。
 考えてみれば、青春というのは不思議だ。
 人生は人それぞれだが、青春というのは同じような輝きを放っている。それはおそらく、はじめて立たされた人生の十字路で降り掛かる悩みや、挫折、手痛い裏切りなど、自分と向き合わなければならない経験を誰しもがくぐり抜けて、ようやく方向を見定めて歩き始めるからだろう。
 この日は大サービス、メニューにはない博多にちなんだ曲が演奏された。『待ち合わせの交差点』と『男は女が必要さ』の2曲だ。「天神」「大濠公園」「照和」といった言葉が歌詞に登場する。
 目を閉じて気持ちよく歌っている剛が、たしかに〝いつかの剛〟に見えたような気がした。


2013年6月17日月曜日

6.12-13 Zepp Namba LIVE REPORT

極度に制限された空間に、生ギターの6弦の音が響く。


 ステージ中央の長渕を取り囲むようにトーチが置かれ、その炎がギターのボディに映ってゆらめいている。それだけで音楽が鳴り響いているような静謐な世界で幕を開ける。舞台の上にはもちろんドラムセットもなければ、サポートメンバーもいない。しかし目を凝らしてよく見てみると、いつものライブにはないものがある。ギターのアクセサリやドリンクなどを並べてあるサイドテーブルの上にグラスがきらめいている。そしてその中にハーモニカが入っているのが見える。下手側(ステージ向かって左側)に目を移せば、銀色のハンガーラックにシャツやジャケットがかかっていて、その角にキャップとハットが引っ掛けてある。まるで長渕剛のプライベート・ルームに招待されたような親密さが会場中に溢れている。凝った演出を施すのではなく、さりげないしぐさのような心配りでファンクラブ・ライブという名にふさわしい空間を作り上げていることに感嘆させられる。
 曲が終わるごとにギターを替えていく。その姿自体は珍しくはない。しかし、今回は特に曲とギターとの相性にこだわり抜いている。リハーサルの段階から実際に使用している本数の約3倍のギターを試し、スタッフと試行錯誤を重ねて選りすぐっていった。こだわったのは、それだけではない。ギター本来の生の音をより忠実に届けるようミリ単位の調整が連日続いた。たとえば、『かましたれ!』で使っているエピフォン・オリンピックのしわがれたブルースシンガーのような響きを、『パークハウス 701 in 1985』の底の見えない深い孤独を感じさせるような響きを聴けば、その違いは明らかだ。
 そしてギターと同じように、衣装も今回の見所のひとつとなっている。こだわり、というよりも、気配り、と言ったほうがより正確かもしれない。ステージ上のハンガーラックから長渕がその時の気分で洋服をチョイスしていくのだ。そうだな〜、と迷いながら姿見を確認してシャツを選ぶ姿は、かなりレアで微笑ましい。しかしその衣装選びもライブの世界観を構成する重要なパーツだということがやがてわかる。たとえば、純白のシャツに『何の矛盾もない』という組み合わせがそれを象徴している。
 繰り返しになるが、ここには何もない。けれど、すべてがある。
 長渕剛と彼の唄と、そしてファンクラブ・メンバーズ。これ以上幸せな空間は他にない。






2013年6月11日火曜日

6.8 鹿児島・宝山ホール LIVE REPORT

長渕剛の本質を感じるまさにファンクラブ・ツアーならではのライブ!


 わき起こった歓声が静寂に変わった。
 いよいよ始まったファンクラブ・ツアー〝Thank You!〟、宝山ホールに詰めかけた超満員のオーディエンスはその瞬間、何を思っただろうか。
 あれ、いつもの剛のライブと違う、という戸惑い。
 声援を送ろうと思って吸い込んだ息を飲んでしまった、驚き。
 目の前に一人で立つ長渕剛と対峙しているかのような、緊張感。
 今回のツアーは長渕剛による弾き語りライブだ。照明や演出を極限まで削ぎ落し、ギターの音の一粒一粒、声の立体感、そういった本質のみをクローズアップしたライブになっている。だから、剛のライブに行くこと、すなわち、拳を上げて喉が枯れるまで叫ぶことだと認識していたファンは度肝を抜かれたことだろう。闇の中にギターを構えた長渕剛がポツンと佇んでいるのだから。
 曲が進行して行くにつれ、唄の世界にどんどん引き込まれて行くのがわかる。まるで覚醒しながら眠りの奥深くに分け入っていくような、ライブ会場ではじめて経験する感覚だ。
 そして特徴的なのは、長渕が三十年以上にわたって紡いできた楽曲の中から、とくに珠玉とも言えるラブ・ソングを選りすぐっていることだ。こうやってアコースティック・ギター1本の演奏を聴いていると、改めていかに長渕剛がラブ・ソングを大切にしてきたかということがわかる。それと同時に長渕のラブ・ソングが、たんに男女の機微だけを歌ったものではなく、思い通りにいかない苦悩や自己矛盾、身を引き裂かれるほどの悔しさなど、誰もが感じる若い頃の焦燥を唄にしているのだ。たとえば『HOLD YOUR LAST CHANCE』で長渕剛がいくつになってもオーディエンスの心を振るわせることができるのは、青春の唄が青春で止まっているのではなく、時間とともに若い頃の苦悩が大きな愛へと成長していっているからだ。
 そう思って、長渕剛が今回作り上げた〝闇〟に目を凝らし、集中していると、だんだん自分自身と向き合っているような気になってくる。最初に感じた、戸惑いや驚き、緊張が自分の内面へつながっていく。そうすると、さらに唄の世界へ深く導かれる。このライブ空間の中で起こる幸福な循環こそが、今回のファンクラブ・ツアーのライブで長渕が目指したことなのだ。そしてその循環の大きな輪の中には我々と同じように長渕自身も含まれる。ステージで歌っている長渕の姿が、まるで自己に問いかけているように見えてくる。
 答えはないんだ。けれど答えを求めるんだ。だから唄を歌うのかもしれない。
 ようこそ。長渕剛の本質が垣間みられるライブへ。
 これ以上、ファンクラブ・ツアーならでは、というライブは、ちょっと見たことがない。